母の介護をはじめてもうすぐ1年。
両親との縁が濃い薄いは人それぞれ。介護をするしないも人それぞれ。
今になって介護している知人が周りに何人もいることを知る。
しかも女性一人で母を見ている人も少なくないのだから、私の介護は甘ちょろい。ショートステイと主人の力を借りなければ、体力的に母の介護は無理だったと思う。
私の場合は、両親との縁が深く、特に母との縁は姉妹のように深いと思う。
ある時から、老いた母と会い別れるたびに胸ぐらを掴まれるような悲しみが沸き起こり、実家から東京に向かう車の中で、大泣きをするようになった。
30歳のとき、「自分を知るためには、自分の両親を知りなさい」とある方に言われたことを機に、頻繁に田舎に帰って両親と話しをするようになった。
そうしているうちに、親と一緒にいる時間に居心地よさを感じられるようになった。それは結婚してからも変わりなく、主人と一緒に月に一度は両親に会いに実家に帰った。
80歳すぎた両親のボケは2人並行して、だんだんひどくなり、母は歩くのもままならなくなっていた。
ある深夜に実家に帰宅したときのこと。
母の寝室では、部屋の明かりは消えているのにテレビの明かりが煌々として、 BSでアメリカのソウルシンガーの番組がついたままになっていた。
ベッドの上には母がちょこんと座っていて、テレビをみていた。
私「お母さん、起きてたの ??」
母が深夜の2時過ぎの時間に起きていたことにも驚いたし、母がソウル番組を観ていたことにも驚いた。
母は「おかえり、待ってたのよ。とても素晴らしい音楽よ」とにこりとした。
私「大丈夫 ??どうして起きてたの ??」と、すこしずつ痴呆がはじまっていた母を抱きしめた。
抱き合うと、母は「えりちゃん、私はあなたが一番好きよ」と。
それまでにも母には「あなたしか頼る人がいない」と度々言われてきたが、母に言われた言葉は右から左へと流れていた。
ただ、母の痴呆が進みはじめたこともあって、この時ばかりは母の言葉がいつになく深く胸に染み入った。
それからしばらくして足を骨折して車椅子になり、父もボケてきて、母の面倒を見ることができない状態となり、
母は家で暮らせなくなり施設入所した。
施設の母に会いに行くたび、東京に向かう車の中で、大声で泣くことを度々繰り返した。
そうこうしているうちに世はコロナに取り巻かれ、母にも父にも簡単に会えなくなったまま半年がすぎ、父にはガンが発覚し、あっという間に旅だった。
旅立つことは何も問題ではなかったけれど、父が亡くなる前から葬儀が終わるまでの間、コロナという目に見えない壁のおかげで、我が父でありながら、まるで他人が亡くなったかのように距離があり、それはそれはとても虚しかった。
東京から父の葬儀に参列した私は、施設に入所していた母のそばにいることもできなかった。
父が亡くなったときに、母の面倒を見なくてはという思いが今までになく強くこみ上げた。
施設入所まもない母を、兄夫婦に頼んで施設から出してもらい東京に連れてきた。
母の面倒を見ると決意してから何度も母の面倒をみるのはやめようと心は揺れた。
介護は大変、それしか聞いたことがなかったから。
私一人で衝動的に母の介護を決めてしまったことで、主人に本当にたくさんの力を借りなくてはならなかったことに
、母を東京に呼び寄せてから気づいた。
主人のことはまたいつか書こうと思う。
母は想像以上に老いてしまって、6割は私の見たことのない母だった。
車椅子で、全てのことに介護が必要で、痴呆症で躁鬱が激しく、人格が何人かに取り憑かれているように日毎にかわった。
おだやかで比較的意志疎通がスムーズなボケているように見えない日、固まっていて何も話さない日、ハイテンションで絡んで、話すことがほとんど妄想の日が交互にやってきた。
わたしは、どう対処していいかわからず、毎日イライラとし、気分はずしりと重くなった。
介護はじめのうちは、私はほとんどノイローゼのようだったと思う。
どうしていいかわからずに毎日ケアーマネージャーさんにメールをしていた。
私は昔から無理して頑張ることができないたちなので、無理だと思うときには、ショートステイに預けて助けられた。
ショートステイのスケジュールを決めるのもノイローゼ状態。毎日毎日予定を組み直してはケアマネージャーさんにメールをした。
母は昔から敏感体質で、霊的な面もあったため、母の人格が変わることの原因の中に憑依も強く感じた。
着ている物や持ち物に憑いていた何かとても古くて強いさまざまな想念の様なものを清めなくては と思い、
母の持ち物を何度も何度も毎日洗うようになった。
私も数年間ヒーリングについて学んでいたため、人を観察してどうすればいいかがわかることは多い。
母の状態の中で変えようと思うことは全て変化させた。
私のイライラをいつもなだめてくれるのは主人だった。
主人は母のようなタイプの親を世話していた知人を知っていたのだという。
だから、どう対応したらいいのかを私よりよくわかっていた。
決して感情的になってはいけない。
わたしが怒るたびに母が落ち込んでしまうから。
もし私が痴呆で躁鬱の激しい母に対していつでも穏やかに明るくいられたら、ヴィパッサナー瞑想のある境地を通過することになるのと等しいだろうと思った。
25年も瞑想をしながらも、感情的な部分について変えることのできなかった自分をも越えられるだろうと感じた。
母に対し感情的になるたびに自分を見つめて浄化することを繰り返した。
おかしな話だけれど、母のシモの世話をして、水で洗い流すたびに、長年職業柄ついてしまったおかしなプライドが剥がれ落ちていくのを感じるようにもなった。
「自分を知りたければ親を知りなさい」と言われた言葉は本当だと介護をはじめてから毎日思う。
母と過ごす日々の中では、どの環境に身をおいても変えられないと思っていた自分の中に染み付いた感情の根がミルミルと剥がれ、より客観的に物事をみる習慣ができてきた。
母にとって何が一番いいのかを考える余裕がでてきてからは、
母に意志を確認するために「下田に帰りたいか ?」と聞くようにしている。
母は度々「下田に帰りたい」という。
でも「施設には戻りたくない」といい、
「下田の施設に帰るか、東京に一緒に住んで、時々ショートステイに行くか。どちらかを選んでいいよ」と聞いて、
結局母は「ここにいる」という。
そして、もうすぐ1年になる。
まだ介護初めて1年足らずで言えることでもないかもしれない。
けれど、経験が短くても、母の介護で気づくことは本当にたくさんある。
親の世話をすることがこんなにも深く意味のあることだったとは。
全てにおいて気づきがあり、感謝がこみ上げる毎日。
母を起こすとき、トイレに連れていくとき、抱き合うたびに「愛」を感じるということが起きる。
「これが愛なんだな」という感覚が毎回起きる。
母が鬱のときには、私に強くあたる。
あたるのだけど、母はとても純粋で鋭く、マトを得ている。
私が何かいうたびに「あなたは生意気ね」とか「態度がでかいわね」「嫌ならいつでもやめなさい」などと正面から言えるのは母しかいない。
ストレートに言ってもらうことで、その言葉が私の胸に染み入り、ハッとする。
どうやっても取れなかった長年染み付いたプライドをとってくれたのは母である。
介護をしてあげているというよりも、介護を経験させてもらっていると思う。
日々自分の親が老いていく姿に付き合えて本当によかったと毎日思う。
介護は別にしなくてもいいと思う。けれど、自分を産んでくれた親、
自分が選んだ親との時間を少しでも一緒に過ごすことができるなら
これは本当に価値のある経験であると私は思う。
そして、7−8ヶ月過ぎた頃から、何をいわれても腹が立たなくなった自分も今褒めてあげたい。
すこしは大人になれたかもしれない。
55歳で通過する介護という通過儀礼は、実は愛で埋めつくされていると今の時点では思う。
あまり無理はしたくないけれど、できればいつか母を天国に行く道に乗せてあげる役目をしたいと思っている。
私の介護は半分以上主人のおかげであるし、母のおかげであるし、ショートステイやケアーマネージャーさんのおかげであるし、そして、瞑想のおかげでもある。
母へ、主人へ。
こんな私でごめんなさい。いつもありがとう。