久しぶりにお花生けてみました。
家で花をいける場合には、数少ない花瓶の中から花瓶を選ばないといけない。
どの花瓶にいけるかまでを見極めずに気分で花を選んで買ってしまうから、
帰ってきて花瓶を決めるのに意外と迷う。
たくさんの花瓶を買いたしたいという気持ちもないため、
活け方が比較的似てくる。
綺麗にいけるのに、枝を短くしたい気持ちと、
花を長く持たせるために、枝切りを毎日少しずつしたいという気持ちとのせめぎ合い もある (笑 )
でも結局短く切ってしまうのだ。
活けているうちに枝が折れてしまう繊細なお花も。
でも、こうして何にも考えずにジャムのびんに挿した花の方が好きだったりする。
写真の撮り方によっても全然違って見えるし、
とあーだこうだと頭で考えていけるのはどうか。。。
たまにいけるからこうなる。
お花はお金もかかるし、本当の自然ではない。
とても好きだけど、、、
自分が山に入って自然からいただいてくる自然の花とは
まったく違う意味だといういつも少しの疑問が残る部分。
何かを責めたいわけではない。
ただ、今世は自然の中で生まれ、幼少期を自然の中で過ごしたため
子供の頃からずっと不自然さに違和感があるのだ。
小さなころからそうだった。
田舎生まれの人には同じ思いの方もたくさんいるだろう。
若い頃はその目まぐるしく不自然なものも、刺激があって楽しかったのだけど、
実態をよくみればみるほど、少しでも子供の頃のように、
不自然さから離れたいという気持ちは無視できない。
幼少期に過ごした家のすぐそばにも、循環道が新しくできてきた。
山が崩されている。
ここに住んでいた動物達は大移動しなくてはならず、水脈も変化するだろう。
コンクリートの大きな柱が大きなお墓に見えたりする。
けれど、東京からの車移動は15分早くなってとても便利だ。
色々と外の問題探しをしてみても、問題がなくなるわけではないから、
これはこれ、それはそれって感じでこれ以上考えるのはやめよう。
でもきになる。
の繰り返し。
文句を言うのはやめたい。
お花を買う時には楽しいし、母にと思って買うのだけど、
活けているうちに疑問がふつふつとわくのはつねに。
花生けが思うようにいかないからか (笑 )
花屋さんは好きだし買った花からもたくさんの元気をもらえるのは間違いないことだけど、
花を買うことを見直そう。
そんな最近。
「我が仏我が中心にざす。」
まったくのオリジナルですが、こんな言葉が自分の中から何度も湧き出てきたので、
最近はこれをテーマにしています。
以来、仏像を見て、仏像ってこういうことのために作られたのかもしれないと
感心したりしています。
最近はそんな心境で、
自分の中心にいることを深く意識するようになっています。
なぜそうなってきたのかといえば、
大きな大きな理由としては、
コロナになって人と会わなくなったからだと思う。
年齢とともに、人と会うことがすごく大事だと言う時期をすぎたのかもしれない。
時々友達と会うとか、
人と話す、仕事で人とたくさんの方々と話すと言うことはとても楽しいのだけれど、
外へ外へ外へ出て自分を売ると言う社会の体勢が自分にあわなかったのだと思う。
怠けるのが好きと言うこととは違うのです。
家にいても、日々のことを一生懸命にやるし、
仕事がきたら楽しんで一生懸命にやるのが好き。
けれど、外へ外へ外へ、、、、の連続がすぎると
何をそんなに外にばかり求めるのか、、、
自分不在時間が長すぎで、
心が不安定になってしまうんだなぁと言うことを
コロナになってますます深く感じました。
今は、本当に自分のペースで、
自分の中に降りてきた言葉を信じて、
自分の中心に仏が座していて、
その仏さんが自分の中心からビュッと前に飛び出さないようにすることを
訓練しています。
力んで何かをすることは
不自然だなと思う気持ちが
ますます強くなりました。
子供時代からの性質ですが、
教育がそうさせてくれなかったから
日々不自然に思うことばかりが多くストレスがすごかった。
コロナ以来性質と生活が一致してきたように感じます。