味噌作りの余った大豆で旦那さんが豆腐作りをはじめて、台所に置いてあったボールに入った水に浸された大豆がとても美しいなぁと思った。
天草にしても、大豆にしても、私の幼少期の記憶の中の味覚は元初と言われるような味に近いものばかり。
祖父母が、農業や養蜂、蚕を飼ったり、鶏も飼っていたし、竹でカゴを編んだり、、、ありとあらゆるものを作っていたお陰。
原初的な食が好きなことは、母からも教えられたし、父方の祖父母からも教えていただいたことで、そのどちらにも感謝の気持ちでいっぱいになるのです。
ベジタリアンになって、25年以上たって、濃い味付けや脂濃いもの、たとえばラーメンなどはもう食べないし、プラスα、味覚にも年々変化が起きていることもあって、ますますお豆腐や、天草のような味のない中にある天然の味に深く惹かれるようになりました。
矛盾もあって、ストレスがたまると、突然化学調味料がたくさん入ったお菓子やカロリーメイトなんかを食べたくもなり、もうやめようと思うこともよくあります。
いまだにやめられないのは、おやつに食べる醤油せんべい。
とてもシンプルなおせんべいだけど、化学調味料が入っているのを知っていて食べている。
やめたいんだけど、代わりになるせんべいがなかなかみつからない。
なるべく小麦だちもしています。
時々は全粒粉のパスタもいいよね、とか、全粒粉のパンもいいよね。きび砂糖を使った自家製のママレードとか、梅ジュースとか家族の誕生日にはビーガンケーキをホールで食べたり、頂き物のお菓子は朝いただくようにしたり、工夫しながら。
深夜に出先のコンビニで、検討に検討を重ねて買うのは、ゆで卵かバナナと豆乳か炭酸水。
ゆで卵だって、一体どんな卵が使われているか、、、、と思う。もうやめよう。
心が平常心の時に食べるものは、いつも吟味に吟味を重ねるのだけど、ちょっとストレスや負荷がかかると、食べながら、変なもの買ったなぁと思う。
ベジタリアン27年で思うことは、ベジタリアンは確実に人格をかえるということ。
ベジの人は、通常から見ると好き嫌いが激しく、気難しい人が多い。
これは、一般には感じられないものを感じられるようになるからだと思う。
でも、今改めて思うのは、そんなに周りに気に入られようとして生きる必要はもともとなかったということ。
外側の評価とか、外側に目を向けて生きることに意味が見出せない。
各々が自分の内側に集中すればいいと思うように。
みてみて時代が終わるのかもしれないと思っている。
ベジタリアンになると一人熱中型の性質はますます高まるように思う。
でも、それでいいと思うし、何がいけないんだろうか ?と不思議に思う。いつも寄り集まって、他人の噂話をすることは無駄な時間にも思える。
他人に自分をみてもらうこと、人に情報を流すこと、その情報を知ることは、皆にとって、自分にとって本当に必要なのだろうか ?とよく吟味すると、私たちはそういう情報によって無駄なゴミを出しているのかもしれないと思うことの方が多いような気がすることもなきにしもあらず。
スタイリスト生活のながい年月、私はほとんど雑誌の世界でお仕事をいただいて、たくさんの経験をいただきました。
その経験をいただけたことに心から感謝をしています。
その経験を長く長く積み重ねてきたからこそ気づいたことで、振り返ると、このお仕事をいただいて経験させていただいたことが本当に貴重な気づきをもたらしてくれたことに、感謝してもしきれない思いがあふれます。
テレビや広告同様に、雑誌の世界というのもあきらかに洗脳なのです。自分がないとその雑誌の中の世界でいろいろなことを吸収してそして、社会との共通点を見つけたり、欲望を感化されたり、知識を取り入れたりします。
いい情報もたくさんあるのですが、1冊の雑誌の人間像というのは、私ではない。
探しても探してもそこに私はいない。それは雑誌を作っている会社や編集者の方々そのものだからなのです。
自分ではない、他人の作った世界に浸り、毎号毎号雑誌を買って自分をみつけようとする。何かをみつけようとする。欲求にあおられて買い物をする。いい情報を見つけたい欲求と同時に、自分の中には常に社会への焦りとか、不安があって、それを埋めようとしていたのかなと思うんです。
私も作る側に関わらせていただき、なるべく良いもの、長く使えるもの、天然素材でゴミになった時に環境破壊せず燃えるものを選んで紹介させていただいていましたが、環境のことを深く思い、自分の検討に検討を重ねた考えでさえ、時に曲げなければならないことがたくさんあって、もうできることは雑誌の中にはないなと思いました。
年齢的にも雑誌から学ばせていただくことがなくなり、40代に入り雑誌を買うことがなくなりました。
いまは SNSもある、こういう生活、こういうスタイル、素敵な生活がたくさんある。でも、その中に浸るということは、自分以外の違うエネルギーを、自分のオーラにどっぷりとかぶせることでもあって、エネルギー的にみれば、「それは本当にあなたですか ??」という仮の姿の生活になります。
それが日常になっていると、狐や狸、猫とか、、、動物霊の憑依がみられることが多いそう。欲が強く、オーラがあつく、どこか脂っこいねっとりしたオーラ。いつも物やグルメの話ばかり。
という風になるから気をつけたいと思う。油断大敵。
でも、その方が一般的には人気があることが多い。
そこを目指すのを一切やめることが、新しい次元上昇だと私はとても強く感じています。
うまくいっている人ほど手放すのが難しいかもしれない、物質次元で成功した人ほどエゴを手放すは難しい。
自分の内側にどんどん深く入りはじめると、外側に取り繕って一生懸命切り貼りしたような自分とは違う、本当の自分をどんどん深く知っていく。
それは他人にはわからない。人に伝えても伝わらない。ほとんど。笑。
でも、それでいいんです。というより、他人にわからないからこそ自分、それがすごくいいんじゃないかなと思うようになった。
誰にもわからなくても、。
それくらい誰にもわからない自分を生きられるようになったら、本当の貴重な一つの生命を生きていることが感じられるようになって、その先には、言葉にせずとも全てが繋がっているという感触、愛があって、実は魂の奥の奥を歩いていくと
全部とつながっていたよという場所に出る。
こういう経験もひとりひとり違うと思います。
外側の洗脳に動かされるのをもう一切やめよう!!
どんなに素晴らしい世界観や思想、宗教があったとしても、それはあなたではないし、私ではない。
そう思う。学ぶのはとてもいい。けれど、それにすがったり、真似たり似せたり、評価を得ようとしなくてもいい。
表現も好きなように自由にすればいいと思う、一切気にせずに。
完璧は目指さないことも心しているけれど、
原始仏教的な思想が私の魂にはものすごく近しいものだと感じるから
いまはそう思うのだけど、一切皆無、一切皆空。
ただ今業を生きている。業に感謝。苦しみに感謝。苦という業。
業を生きて業を浄化するのが今世の役割。
父が大好きだった「苦難こそ我が師なり」
今ひしひしと同じことを感じる。
そう思うと苦だと思っていたことが苦ではなくなり、
何にでもありがたいと思うようになって、
幸せになる。
年齢を重ねて分かってきたことが多すぎる。
年齢にも感謝よ。
なんか打ったり、肌を白くしたり、注入したり、脱毛や毛染めでさえも、、、
若くみせるためにそういうのは、
心が歪んでしまうから、やめた方がいいんです。
外側を綺麗にすると、その痛みやショックで、心が歪んでいくように思うのです。
歪みをとるのに時間がかかります。
もう老いも怖くなくなりました。