先日森美術館に「私たちのエコロジー展」をみに行きました。
森美術館の展示はは54階 ??なので、どうしても呼吸が浅くなり、じっくり観るのには少し根気がいり、毎回下に降りてくるとホッとします。
34人100点の見ごたえのある展示で、自分の日々感じていることとのシンクロも多々あって、生活を再考する良い機会になりました。
中でもモニラ アルカディリの真珠と石油産業の歴史をたどったアートの説明に、持続的自然破壊は超自然的憑依行為で、人間と自然との関係を憑依と恨みと捉えている見方にビビッと共振。
人間が欲に憑依され、自然を破壊することで、自然から恨みをかうようになるというアート。
何しろ、人間の尽きない欲望はある種の憑依だなと、自らを省みた時にもたびたび感じることです。尽きない欲望を瞑想して浄化するということは日々していて、年齢とともにいくらか欲望も小さく沈静してきてはいるものの、それでもまだ欲望が尽きないなと感じることもあります。
確かに、カルマというのは、一寸も間違いなく自分に戻ってくるので、自分たちが自然のことを思いやらず、スザまじい欲望の虜になり、環境を破壊していけば、自然から恨みをかわれることは当たり前のことだし、動植物からの人間への恨みはあって当たり前。自ずとこれから起きることはみえてきます。
最近は環境を思い再生素材も発明され、そういったものを使用して家を建てたりすることも多くなってきたけれど、実際には、廃材を再生するのにもエネルギーが相当いるというような問題を提起しているアートも。
人間が問題解決のために何かをしようとすればするほど、それがかえって問題の解決を遠ざけるということはよく起こりえること。
エコロジーに興味を持って展示に足を運ぶ人の多くは、54階という高層に、これらのアートを運び込むことに使うエネルギーの膨大さや処理に想像を巡らせ、この展示自体は果たしてエコなのか ?という疑問も生まれるでしょう。
前にも同じような展示をしていた時に、同じことを思った。けれど、それも含めて、生活の再考の機会になりました。
好きだったのは、松澤宥さんの「私の死」という空の空間の展示。
最近、鳥が死んだり、虫が死んだりするのを観ると、人間となんら変わらなく、死は本当に日常で、人間の一生は本当に一瞬だなと思うことが増え、たくさんの人と道ですれ違うと、集合意識を感じることも増えていて、
そんな時に、松澤さんの空の空間に入り、なるほど!!とものすごく合点がいきました。
アサド ラザは、展示室の空調を修理するために、木の足場を作り、朝日神社の神主さんが再生を祈祷し、自然光の中で木の足場が飾られ、静かな音響がながれているだけの展示。この足場は展示後に、小田原名工舎に返却され、再生されると説明があり、こんな風に無駄のない展示は素晴らしいなと素直に感じました。
「芸術は必要無駄」という言葉もあるけど、いまそんな呑気なことをいっていてはいけないんじゃないか ??と思うほど、自然はまずいことになってきているのも事実で、このカルマを私たち人間がもっと重く受けとめ、自然を自分と同様に、思いやることがとても大切な時期。
できる限りシンプルに生活し、自然回帰を目指そう。