母の介護をはじめたこと、それなりの年齢になってきたことで今までは考えないようなことを思うようになってきました。
欲しいものを買って家に置くのはいいけれど、自分がもし突然なくなったらどうなるか ?
そんなにものが多い方でもないけれど、誰かが片付けなくてはならないことも考える。
年老いてからとしても、先にもし旦那さんが亡くなったら、子供がいない私は旦那さんの荷物を果たしてかたずけられるだろうか、、、
たった一人から出る粗大ゴミの量の凄さははかり知れなく、自分の生き方をあらためて考えます。
それから何にでも使うようになった暗証番号。
生前の父の物忘れが激しくなってきたときに、いつも銀行の暗証番号を独り言のように唱えていた頃から思うようになったこと。
父の世代は、銀行のカードの暗証番号だけでよかったけれど、このカード時代には一体いくつの暗唱番号があるのだろう ?など。
色々と若い頃とはまったく違うことを思うようになってきた最近。
なるべく無駄なものは買うのはやめてスッキリしよう。死ぬときには何もいらないのだし。
本当に価値のあるものなら、それは受け継がれて行くだろうからそれはいいと思う。
でも、環境のことや死後のことを思うと、身軽にシンプルにして、あれもこれもと買うべきではないなあ。
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母は痴呆もあって毎日何月何日かなんてわからないはずなのに、
父の誕生日前後には、何度も父の名前を呼んでいました。母って本当に不思議な人です。
そんな母が、両親やおばあちゃんに会いたいとか、自分の生まれ故郷、北海道に行きたいと頻繁にいうようになりました。
今まで結婚後長く生活していた静岡に帰りたいとは言わないのです。
人生の終盤にはやっぱり嫁ぎ先より生まれた故郷を思うものなのでしょうか。
生まれ故郷のことを何度も言うけれど、その住所がわからず、連れて行ってあげたくても、それができずとても困っていました。
思い立ち、北海道に住む親戚にお手紙を書いて聞いて見たところ、母方の祖父母の戸籍謄本を取り寄せて送ってきてくれました。
3代前まではわかるのだそう。
これを見て、私は母の母と、今まで知らなかった母方の母の祖父母の名前を知ることになりました。
そして、なんと、母が会いたがっていた母の祖父母のお墓が関東に移されていることもわかりました。
静岡の施設からそのお墓に行くことは母には難しかったのですが、母が東京に住みはじめたことで、母の両親のお墓にも、祖父母のお墓にも奇跡的に車で1時間圏内で行けることがわかりました。
母を東京に連れてきたことをとても感慨深く思いました。
早速母の両親が眠るお墓の方にお墓参りをしていきました。
お花を授けるとお墓の空気がピンーとはってとても心地よくなりました。
お墓には誰もいないという歌があるし、ご先祖さまには感謝して拝むことは日々していますが、今のお墓は、どこか資本主義の仕組みのようで、あまり好きではないと思うこともあります。
私は子供がいないので、自分が墓に入ることなんて考えられず、海に投げてくれと言いますが、それでもお墓参りをすると、お墓がある意味が良くわかるなぁとしみじみと思います。
母は久しぶりに両親に手をあわせることができて大満足のようでした。
本当によかった!
さぁ次は母の祖父母のお墓参りへ。